第四章 縛られた家
柚希の母、嘉江は、綾乃が失踪した理由を今まで頑なに柚希に言わないでいたが、事情が変わったという。
それは、綾乃の夫、慶次からの手紙だった。
綾乃と慶次は同じ高校の同級生だった。
クラスのいじめの標的にされていた慶次に優しく接していた綾乃。
二人は一緒に勉強したりしながら、やがて付き合うようになった。
しかし、綾乃は家族のことや、今どこに住んでいるのかなど、何も教えてくれなかった。
卒業間近のある日、「絶対誰にも言わない約束」で、『左手供養』のことを教えてくれた。
この『左手供養』が、家族をめちゃくちゃにした元凶だと。
嘉江は小さな金庫からぼろぼろの色褪せた紙を取り出してきた。
嘉江が言うには、自分たちが結婚する少し前、片渕家に挨拶へ行った時、この紙を見せられ、『左手供養』の話を聞かされた。それは、片渕家を何十年も縛り続ける、呪いのような因習だと。
かつて片渕家は、複数の事業で莫大な財産を築いた。当時の当主は片渕嘉永という人物だった。
嘉永には、宗一郎、千鶴、清吉という三人の子どもがいた。
嘉永は持病が悪化したのをきっかけに、次期当主を宗一郎に選んだ。
宗一郎は内向的で一風変わった青年。清吉は活発で文武両道な青年。
誰が見ても後継者に相応しいのは清吉だったが、彼は妾の子だったのだ。
嘉永は世間体を考え宗一郎をお飾りの当主にし、実権は清吉に握らせればいいと考えたのだか、清吉は家を捨て独立した。
清吉はその才覚で事業を急成長させた。こうして、清吉を主とする『片渕分家』が誕生した。
一方、『本家』では、宗一郎の結婚に関する問題があった。
奥手で女性と関係を持ったことが一度もない。焦った嘉永は屋敷で女中をしていた高間潮を嫁に選んだ。
二人の結婚を見届けた数日後、嘉永は安心して息を引きとった。
しかし、宗一郎は潮と夫婦の関係を持とうとしなかった。
宗一郎は、妹の千鶴と姦通していたのだ。やがて、千鶴は宗一郎の子を孕った。
片渕本家は大混乱に陥った。
世間に知れたら片渕家の名に傷がつく。関係者は事実をもみ消そうと奔走したが、清吉に知られてしまった。
清吉は片渕家に乗り込み、関係者一同の前で宗一郎を叱責した。
本家の弱みを握った清吉は、硬軟取り混ぜた巧みな交渉で、本家の主要人物を次々買収し、分家に取り込んだ。
財産と事業の経営権のほとんどは分家に吸収された。
落ちぶれた本家に残されたのは、屋敷と土地と、少しの財産。
没落した山の中の屋敷で、潮は夫と夫の子を孕っている義妹と地獄のような生活をするうちに精神を病んでいった。
とうとう、潮は自殺をした。
左手首に包丁を突き刺し、辺りは血の海。それを見た宗一郎は大変なショックを受けた。
潮が亡くなって数ヶ月後、双子の男の子が生まれた。
上の子は五体満足だったが、下の子には左手首がなかった!
宗一郎はあまりにも恐ろしい偶然に愕然とした。
左手首のない子は、潮の呪いだと思い込んでしまった。
二人の子どもは「麻太」「桃太」と名付けられた。
二人が三歳になった頃、本家に一人の女性が訪ねてきた。「蘭鏡」と名乗る謎の呪術師だった。
蘭鏡に潮のことを言い当てられると、すっかりこの呪術師を信じて、全て打ち明けた。
蘭鏡は「潮が恨んでいるのは全てを奪った清吉。清吉に復讐しなければ、この呪いは桃太を死に至らしめる」と言った。
そして、潮の呪いを解くための方法を伝授した。
・桃太を太陽の光が届かない部屋に幽閉する。
・屋敷の外の離れに座敷を作り、そこに潮の仏壇を安置する。
・桃太が10歳になった時、清吉の子どもを桃太に殺害させる。
・左手首を切り取り、仏壇に奉納する。
・桃太の兄、麻太が『後見役』として、桃太を補佐する。
・これを桃太が13歳になるまで毎年行う。
蘭鏡はこの儀式を『左手供養』と名付けた。
潮の祟りを恐れた宗一郎は言われるがままに儀式の準備を始めた。
だが、この蘭鏡、実は清吉の第二夫人、志津子の妹、美也子だった。
清吉はかなりの好色で、5人の妻がいた。志津子は我が子を跡取りにするため、妹を呪術師になりすませ、本家へ送り込んだのだ。
何も知らない宗一郎は愚直に従った。
潮の祟りに怯え、乱心状態だった宗一郎は、桃太に清吉の子どもを殺させた。
離れ座敷の隠し部屋で。
やがて戦争が始まると、分家の事業は空襲で壊滅、清吉の子どもたちは全国に離散した。
ただ、本家は空襲の被害を逃れ、離れ座敷も、『左手供養』の儀式も後の世代に受け継がれてしまった。
1.片渕家に左手がない子が生まれたら、暗室に閉じ込めて育てる。
2.左手がない子が10歳になった年、片渕清吉の血を引く人間を、その子に殺害させ、左手を切り取る。
3.切り取った左手は、潮の仏壇に供える。
4.左手がない子どもの兄か姉、それがいない場合は、親戚の中で年齢が近い者に後見役をさせる。
5.この儀式は、左手がない子が13歳にはるまで、1年に1度必ず行う。
宗一郎と千鶴の間に生まれた子、桃太と麻太は早世したが、二人にはもう一人子どもがいた。
重治、柚希と綾乃の祖父だ。
宗一郎は、三男重治に『左手供養』を本家の家訓として厳しく教えた。
桃太以来、左手のない子はしばらく生まれなかったが、80年ぶりに生まれてしまった。
その子は公彦と美咲の次男桃弥。洋一が亡くなった後に生まれた子だ。
母の美咲は桃弥を産んでほどなく、片渕家を出た。
後見役は綾乃に選ばれた。
綾乃は慶次に『左手供養』の話を告白して別れようと言った。
しかし、慶次は綾乃と結婚し、片渕家に伝わる因習を断ち切る為、人生をかけた。
誰にも殺人させない、誰も殺されないようにする為に。
片渕家に住み、信用を勝ち取るため従順に過ごし、しきたりに染まったふりをする。
そして、いよいよ『左手供養』が近づいてきた頃、「自分たちの家を建て、そこで儀式を行いたい」と、重治に告げた。
最初は反対されたが、文乃の甥、清次を監視役とすることを条件に許可が出た。
新居は清次が住んでいた埼玉県。
重治から渡されたリストには、片渕分家の100人を超える子孫たちの住所が書かれてあった。
慶次は、そのリストの中から金に困っている一人の男Tに、まとまった金を渡すので儀式の後、行方をくらましてほしいと頼んだ。
あとは死体を探さなくては。
青木ヶ原樹海に行き、自殺者の遺体を探したがそう簡単にみつかる訳もなく、途方に暮れていたとき、偶然、自治会長の宮江恭一という人が連絡もなく会合に来ていないことを耳にした。
胸騒ぎがしてアパートを訪ねると、既に息絶えていた。遺体を自宅に持ち帰り、左手首を冷凍庫に保管した。
儀式の当日、Tを家に招いた。
監視役の清次は、家の外で待機するとのことで好都合だった。
しばらく時間が経ったのち、冷凍庫で保管していた左手首を清次に渡した。
これで一人目の儀式は無事済んだ。
慶次と綾乃の子ども、浩人が生まれて1年後、清次の仕事の都合で、東京に引っ越すことになった。
それに伴い、片渕家から援助を受けて、東京に新居を建てた。
慶次は、一緒に暮らすようになった桃弥にも次第に愛情が湧くようになり、『左手供養』さえしのげば、普通の家族としてやっていけるのではと考えた。
しかし、重治にバレてしまった。
埼玉で「左手を切断された遺体発見」
「被害者は宮江恭一さん」
新聞記事を見た重治は、違和感を感じ、別の親族に調べさせたところ、リストに載っている人物は全員生きていることが分かった。
重治は激高し、「すぐに桃弥を連れてこい」と、清次に命じた。
清次が強引に桃弥を連れて行こうとするのを阻止する為、慶次は清次を殺害。
後に、重治も殺害した。
後日談へ続く